安岡勘助(尾上寛之)の役柄
朝ドラ「カーネーション」の「勘助」とは、安岡勘助(尾上寛之)のことでヒロイン・小原糸子の同級生です。糸子は安岡勘助のことを「勘助」もしくは「ヘタレ」と呼び、勘助は糸子のことを「糸やん」と呼び合う間柄で、2人は尋常小学校からの幼馴染です。
なお勘助の母は安岡玉枝(「安岡のおばちゃん」濱田マリ)・兄は安岡泰蔵(須賀貴匡)・義理の姉は安岡玉枝という関係です。
勘助は朝ドラ カーネーションのオリジナルキャラクター
朝ドラ「カーネーション」は「コシノ洋装店ものがたり」を参考にしながら、小篠綾子をはじめとして実在した人物がモデルとなっていることがあります。
ですがこの安岡勘助と推測できるような人物は「コシノ洋装店ものがたり」には登場せず、朝ドラ「カーネーション」のオリジナルキャラクターであると考えられます。
先日、公開した「朝ドラ カーネーション キャスト 相関図」という記事で、安岡勘助のキャラクターはこのように紹介しました。
玉枝の次男で泰蔵の弟。成長するとともにヘタレな性格が表れてくる。サエが在籍するダンスホールに入り浸っているところを糸子にとがめられる。のちに戦争に出征したあと、戦場で体験した恐怖により精神を病んで除隊する。戦局の悪化に伴い、再び召集され1944(昭和19)年10月に戦死。
朝ドラ カーネーション 相関図
勘助 何があった? 精神を患って岸和田に帰還
朝ドラ「カーネーション」の序盤では、勘助は「ちょっと弱気だけど憎めないお調子者キャラ」という役柄でした。
しかし「カーネーション」のお話が進むにつれ、当時の世相を反映してシリアスなキャラクターに変わります。勘助は、1937年(昭和12年)に赤紙がきて徴兵され、1941(昭和16)年に除隊して岸和田に帰還します。
「徴兵なんてこたぁない。弾なんてめったに当たらん」と小原善作をはじめとした、お気楽な岸和田商店街のおっちゃんたちに出征の祝いをしてもらったものの、戦場での経験のため精神疾患を患って帰ってきたようです。
あの優しくて気の良かった勘助の姿はもうどこにもありません。
勘助に再び召集令状 1944年10月に戦死
その後、出征前に働いていた和菓子屋の職場復帰したものの、糸子がかつて勘助が惚れていたサエに会わせたとたんに精神に異常をきたし、自宅の2階から飛び降り自殺を図ります(この後、母親の安岡玉枝が糸子に勘助との絶交を言い渡しにくる)。
日本の戦局の悪化とともに、精神疾患がある勘助の元にも再び召集令状が届き、1944(昭和19)年に戦死します。「カーネーション」の「第12週 薄れゆく希望」では勘助がどこでどのように戦死したかは述べられず、2度目の出征のあとに勘助の葬式行列が出るという描写でした。
朝ドラ カーネーション 勘助のトラウマ
勘助は何があった? 本当の理由 カーネーション第22週から
その後、安岡勘助に関する描写は「第22週 悔いなき青春」に登場します。1970(昭和45)年に勘助の母・安岡玉枝が病院に入院したとき、糸子がお見舞いにやってきました。そのとき玉枝は糸子にこんなことを呟きます。
「…昨日な…待合のテレビ観てたんや。戦争のことやっててなあ…。戦争中に、日本軍が戦地で何したかちゅう…。話をやっててなぁ。糸ちゃん…うちはなぁ、勘助がよっぽどひどい目に合わされたて思てたんや。青の子はやられて、ほんであないなってしもたんやて…けど、ちゃうかったんや。」
玉枝は放心したような、静かな声で言った。
「あの子は、やったんやな…あの子が…やったんや」
心の優しい勘助は、そんな自分をどれほど追い詰め、あの暗い部屋で、何度自分の心を殺しただろうか。NHK連続テレビ小説 カーネーション 下 207ページ・208ページより
勘助は軍隊特有のしごきではなく戦争犯罪に加担させられた?
あの勘助がおかしくなってしまったのは軍隊特有のしごきなどが理由ではなく、勘助が参加した戦場での体験だったようです。
想像したくもないことですが、単なる軍隊同士の戦闘行為ではなく、勘助は捕虜や現地住民の虐殺など国際法上の戦争犯罪に加担してし良心の呵責に苛まれ、精神を病んでしまったのかもしれません。
朝ドラ「カーネーション」では、勘助が1度目の出征先で具体的に何をしてトラウマになってしまったのか分かりません。
ですがせめてそれは上官の命令で兵隊として逆らうことはできず、勘助はやむなくやってしまったということであってほしいものです。